宝物な日々。
10年ぶり近いというのにまったくそんな気がしないのは
あまりにも濃密な時間をご一緒していたからでしょうか。
ちっとも変わらない声を聞きながら、
「“三行”書いて!」(←スタッフによる12字×3行の編集後記のようなもの)
と、催促されていた日々のことを、なつかしく思い出しました。
(みんな自分の担当記事に必死で、「三行」はいつも後回しだったんです。笑)
この春、わたしが携わらせていただいたその雑誌が形態を変え、
再スタートを切りました。
母が最終号と、新しい形態の第一号を送ってくれたのですが、
創刊後に入社し、たった4年間だけ在籍していた私ですら、
なんだか胸にこみ上げるものがありました。
創刊前から携わっていた編集長やスタッフたちは
思い入れが強い分、万感胸にせまるものがあるんだろうなあ……
などと考えていた矢先の電話だったので、ビックリ!
聞けば、創刊当時から関わった人を集めてパーティを開くとのこと。
そのお知らせだったのでした。
しかも、みんなのアイドルだった室長“いとじい”の定年祝いも兼ねるというではありませんか!
きゃ~っ、“いとじい”なつかしい。
その名前に、わたしの心は一気に10年前へと飛びました。
新聞社時代のわたしは、世間知らずの青二才。
仕事もできないのに、「自分はできる」と信じている痛~い子でした。
勝間さんも知らない前から“カツマー(気取り)”でしたよ、あれは(笑)。
返す返すも恥ずかしい日々で、編集長にたてつくわ、先輩に意見するわ、
営業のおじさんたちとバトるわ……ただただ、若気の至りのひとことです。
(編集長と「3行」の内容について大ゲンカしたこともありました。
トイレに籠って大泣きしたっけ……。編集長、あのときはごめんなさいっ!)
そんななか、おぼろげながら「上京したい」「トップシーンにいる人たちと出会いたい」
と思い始めていた私の背中を、強く優しく押してくれたのが“いとじい”でした。
「ゆうこちゃんはインタビュー記事がうまかね」
ある日、記事チェックをしてくれていた“いとじい”がポツリといったのです。
うれしかったな~。
わたしはインタビューが大好きだったし、書くのも楽しかったし、
その言葉でちょっと自信がわき、もっともっとうまくなりたいと思ったのでした。
(例にもれず、わたしも“褒められて伸びるタイプ”だったみたい)
そのことを話してからというもの“いとじい”は何かにつけ
インタビューの仕事を振ってくれるようになりました。
先輩に気兼ねして「わたしが行ってもいいんですかね?」というと、
「ここは仲良しクラブじゃないんだけん。やりたい人がやればよか!」とピシャリ。
記者として常に夜討ち朝駆けをし、
いい記事を書く努力をしてきた人の言葉には説得力がありました。
いま思うと、いろんな人に迷惑をかけたり、ケンカしたり、
励まされたりしたあの日々こそかけがえのない宝物だし、
ライターとしての自分のルーツでもある。心からそう思います。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」なんていうけれど、
わたしはお給料をもらいながら学ばせていただいていたんですね。
ありがたや~。
お世話になった方々の顔を見に、
そして、何より“いとじい”にお疲れ様でしたと、ありがとうを伝えるために……。
できる限り調整して帰りたいと思います。